“世界の荒鷲”坂口征二を父に持つ、坂口征夫。 紆余曲折の末 たどり着いたプロレスのリング【4月12日新宿FACE】
3月の後楽園ホール大会、他団体に流出しているDDT最高峰のベルトKO-D無差別級王座を取り戻すべく、DDTプロレスの“最後の砦”竹下幸之介はZERO1・田中将斗と一騎打ちに挑むも、奮闘むなしく敗退。試合後に勝ち名乗りを受ける田中の前に現れたのは、坂口征夫だった。デビュー8年目の坂口が4月12日新宿FACEで至宝ベルト奪還へ。その大事な戦いを前にDDTプロレスリングの坂口に話を聞いた。
大乐聪
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2020/04/07
――プロレスを始めたきっかけを教えてください。
坂口:親父がプロレスラー(坂口征二)で、同じ道を目指したけれど挫折し、総合格闘技の道に入りました。しかし、首を始め怪我が重なり、総合は引退。
その後、身体の体調が回復し、たまたまDDTプロレスリングが主宰している「ハードヒット」という格闘技系の大会があり出場し、DDTの社長である高木三四郎さんに「プロレスやりたいんでしょう?DDTのリングに上がりませんか?」と誘われたのがきっかけで、DDTのリングでデビューしました。
―― 先に総合格闘技デビューでしたが、プロレスには興味がありましたか?
坂口:プロレスやりたかったですね。ただ、やりたくてもやれない状況、プロレスというものが目の前にあっても、掴めないという状況が続きました。ですから自分の中では「これって、プロレスをやっちゃいけないんだろうな」と思っていました。
―― 学生時代から柔道をされていますよね?
坂口:中学・高校と柔道やっていました。それはプロレスをするためのバックボーンとして捉えていて、物心ついた時から、ずっと「プロレスラーになりたいなぁ」と思っていました。
子供の頃って、公園に遊びに行きますよね。その場所が、自分と弟(坂口憲二)にとっては道場やプロレスのリングだったり、近所にいた兄さんがプロレスラーだったりとかするような環境にいました。いつの頃から、プロレスを「家業みたいなもの」と感じていました。
しかし、身長が低かったり自分の気持ち的な問題があって、20代で1度プロレスラーになるのは諦めました。その後、総合格闘技(以下総合)を経験し、何度かプロレスをやれそうな機会が訪れるんですが…。
「届きそうで届かない」という状況が、何回も繰り返されるわけです。 39歳の時、高木さんに出会い誘って頂きましたが、これまでのこともあるので「プロレスはやれない」と思いました。
以前と違って、自分としては総合も経験したし、気持ち的な部分でもリングに立つ準備はできている。でも、あと一歩のところでプロレスへの道が、様々な理由で閉ざされてしまいました。ただDDTに関しては、その道がつながっていたんですね。
――レスラーとして、39歳のデビューは遅い方だと思いますが、不安とかはありませんでしたか?
坂口:年齢的なものは全く感じませんでした。総合デビューも33歳の時だったので遅咲きじゃないですか。20代前半でやるべきことですけど、20代は遊び歩いていたので。(笑)
ただ、そういう時期があったからこそ30代で総合デビューし、30代後半のプロレスデビューがあるので、年齢に関して一切気になりませんでしたね。
――紆余曲折ありプロレスデビュー、2015年にDDT最高峰のベルトであるKO-D無差別級のタイトルを獲得しました。その時の気持ちを教えてください。
坂口:もう頭が真っ白でしたね。精神的にも肉体的にも大変な戦いでした。両国国技館という大きい会場のメインで、最初「自分が勝った」という実感が、あまりないんですよ。
自分の技をかけているし、フォールをしているけど、その実感がない。ベルトが目の前にあるんですけど、頭の中は真っ白…。少しずつ時間が経つにつれ実感し、改めてベルトを見た時は感無量でした。
やりたくてもやれなかったプロレスのリングに立てて、KO-D無差別のベルトも巻くことができた。結構クソみたいな人生だったんですけど、「頑張って生きていれば、見てくれる人は見てくれるんだ」と、KO-Dのベルトを手にして思いましたね。プロレスを諦めずに続けてきて良かったと思えるシーンの一つでした。
――当時、KO-D無差別のベルトを戴冠したのは、プロレスラーとしてデビューして3年目でしたが、その中で一番印象に残ったシーンということですか。
坂口:幼少期からですね。物心ついてレスラーになりたかった、でもなれなかった。総合は総合で好きだったけど、いろいろなことが重なって辞めた。
その後、色々な話があったけどプロレスができない。でも、ようやくプロレスラーとしてリングに立つことができた。そう言った人生全ての中で、一番印象に残る1日でした。
―― 印象に残る一日になったとのことですが、両国国技館のメインは、プレッシャーとの戦いでもあったかと思います。その辺りはいかがですか。
坂口:2015年8月の両国大会の前、6月に行われたトーナメントで優勝し、KO-D無差別の挑戦が決まってから、メンタルがやられましたね。結構プレッシャーが掛かってきて…。
正直、眠れないし飯も喉を通らないという日が続きました。そのプレッシャーと闘っている時「普通の人だと、このプレッシャーに潰されてダメになる」と感じました。そのくらい、追い詰められましたね。
総合の時も減量とか経験し、眠れなくて真っ暗な部屋の中で体育座りしているとか…。(笑)でも、それとは違ったプレッシャーがあるんですよね。
――それは、プロレスは戦うだけではなく、観客を楽しませるという部分も含まれますか?
坂口:「戦う」という部分では、総合もプロレスも同じですが、全く似ても似つかない競技だと思っています。ある意味、対戦相手だけでなくお客さんとも闘っているのが、プロレスなので…。
いろいろなプレッシャーが襲ってきて、普通の人なら絶対に押し潰されてしまうと考えていました。
――そのような中、プロレスラーとして8年の時間が経過しました。振り返っていかがですか。
坂口:そうですね。「まだ8年しかやっていないのか」という気持ちもあるし、「8年もやっているのに何やっているんだ」という思いもあります。さまざまな気持ち混じり合っている8年ですね。だから6年目くらいから数えないようにしました。(笑)
――現在、会社を設立し、働きながらプロレスの試合をし、そしてトレーニングも積んでいるわけですよね。お酒とかは飲まれますか?
坂口:飲みます。飲み過ぎるくらい飲んでいます(笑)。総合時代から変わらないですね。でも、階級があるので暴飲暴食には気を付けていました。もちろん今も気をつけています。
プロレスを始めてからは、トレーニングの仕方が変わりました。細かくいえば、ミットの蹴り方一つから変えました。 プロレスは総合と違って無差別、体格が大きいレスラーと戦います。
総合時代は体重70キロだった自分と、体格的に相手は変わらないわけですよ。それが今度は、自分より50キロ以上重いレスラーと戦うこともあるので、体重も7,8kg増量しました。それ以上増やすと、自分の身体が動かなくなります。
総合時代は70kgの階級だったので、72,3kgくらいで動くのが楽なんですよ。今は、そこから77,8kgの間を行ったり来たりしています。その辺りの体重が、身体を動かす中での限界だと感じています。
レスラーの中には、むりやり身体を大きくする人たちもいますけど、自分の体への負担だったり、リング上でのスピードだったりを考えた時、この体重(72~78kg)がベストだと、プロレス始めて8年間でわかりましたね。
――坂口選手は総合をベースにした蹴りや関節技と、スピード感のある俊敏な動きが特徴的ですよね。プロレスデビュー前から考えていたスタイルですか?
坂口:プロレスをやり始めてから勉強したことが多いですね。今は休止しているユニット「酒呑童子」のKUDOさんや高梨さんと組んでいる時、酒を飲みながら練習の仕方だったり、試合でのスタイルだったり学んだことが多く、それを試合で少しずつ試していくという感じでした。今も、まだ完成形じゃないですし、いろいろと考え試しながらリングに上がっています。
――日々、試行錯誤しているんですね。そう言えば以前、坂口選手を街で見かけたことがあります。年下の先輩レスラーの方と一緒で、その方に対して、気を遣われている印象を受けました。
坂口:自分の中で年齢は、そんなに重要ではありません。自分より先にデビューしていれば先輩じゃないですか。
自分の生き方として、「入社一年目で、自分の方が年上だから偉そうにしている」というのが合わないですし、二十歳の若造にキツく言われても、彼より自分が経験不足であれば、努力して、そいつを抜かせばいい。
本当に年齢は全く気にしないですし、たえず与えられたものに従って、真っ新な気持ちで向き合うのが大切だと思っています。変なプライドを持っている人は大成しないですよ(笑) 。
<インフォメーション>
王者田中将斗選手に、坂口征夫選手が挑むKO-D無差別級選手権。
この試合「DDT UNIVERSE LIVE! MAX BUMP 2020」は、ノーピープルTVマッチとして4月12日、東京・新宿にある「新宿FACE」で行われます。 ご観戦は動画配信サービス「DDT UNIVERSE」で中継致します。
詳しくは、下記のDDT职业摔跤官方网站请看。
URL:https://www.ddtpro.com/ddt
坂口:親父がプロレスラー(坂口征二)で、同じ道を目指したけれど挫折し、総合格闘技の道に入りました。しかし、首を始め怪我が重なり、総合は引退。
その後、身体の体調が回復し、たまたまDDTプロレスリングが主宰している「ハードヒット」という格闘技系の大会があり出場し、DDTの社長である高木三四郎さんに「プロレスやりたいんでしょう?DDTのリングに上がりませんか?」と誘われたのがきっかけで、DDTのリングでデビューしました。
―― 先に総合格闘技デビューでしたが、プロレスには興味がありましたか?
坂口:プロレスやりたかったですね。ただ、やりたくてもやれない状況、プロレスというものが目の前にあっても、掴めないという状況が続きました。ですから自分の中では「これって、プロレスをやっちゃいけないんだろうな」と思っていました。
―― 学生時代から柔道をされていますよね?
坂口:中学・高校と柔道やっていました。それはプロレスをするためのバックボーンとして捉えていて、物心ついた時から、ずっと「プロレスラーになりたいなぁ」と思っていました。
子供の頃って、公園に遊びに行きますよね。その場所が、自分と弟(坂口憲二)にとっては道場やプロレスのリングだったり、近所にいた兄さんがプロレスラーだったりとかするような環境にいました。いつの頃から、プロレスを「家業みたいなもの」と感じていました。
しかし、身長が低かったり自分の気持ち的な問題があって、20代で1度プロレスラーになるのは諦めました。その後、総合格闘技(以下総合)を経験し、何度かプロレスをやれそうな機会が訪れるんですが…。
「届きそうで届かない」という状況が、何回も繰り返されるわけです。 39歳の時、高木さんに出会い誘って頂きましたが、これまでのこともあるので「プロレスはやれない」と思いました。
以前と違って、自分としては総合も経験したし、気持ち的な部分でもリングに立つ準備はできている。でも、あと一歩のところでプロレスへの道が、様々な理由で閉ざされてしまいました。ただDDTに関しては、その道がつながっていたんですね。
――レスラーとして、39歳のデビューは遅い方だと思いますが、不安とかはありませんでしたか?
坂口:年齢的なものは全く感じませんでした。総合デビューも33歳の時だったので遅咲きじゃないですか。20代前半でやるべきことですけど、20代は遊び歩いていたので。(笑)
ただ、そういう時期があったからこそ30代で総合デビューし、30代後半のプロレスデビューがあるので、年齢に関して一切気になりませんでしたね。
――紆余曲折ありプロレスデビュー、2015年にDDT最高峰のベルトであるKO-D無差別級のタイトルを獲得しました。その時の気持ちを教えてください。
坂口:もう頭が真っ白でしたね。精神的にも肉体的にも大変な戦いでした。両国国技館という大きい会場のメインで、最初「自分が勝った」という実感が、あまりないんですよ。
自分の技をかけているし、フォールをしているけど、その実感がない。ベルトが目の前にあるんですけど、頭の中は真っ白…。少しずつ時間が経つにつれ実感し、改めてベルトを見た時は感無量でした。
やりたくてもやれなかったプロレスのリングに立てて、KO-D無差別のベルトも巻くことができた。結構クソみたいな人生だったんですけど、「頑張って生きていれば、見てくれる人は見てくれるんだ」と、KO-Dのベルトを手にして思いましたね。プロレスを諦めずに続けてきて良かったと思えるシーンの一つでした。
――当時、KO-D無差別のベルトを戴冠したのは、プロレスラーとしてデビューして3年目でしたが、その中で一番印象に残ったシーンということですか。
坂口:幼少期からですね。物心ついてレスラーになりたかった、でもなれなかった。総合は総合で好きだったけど、いろいろなことが重なって辞めた。
その後、色々な話があったけどプロレスができない。でも、ようやくプロレスラーとしてリングに立つことができた。そう言った人生全ての中で、一番印象に残る1日でした。
―― 印象に残る一日になったとのことですが、両国国技館のメインは、プレッシャーとの戦いでもあったかと思います。その辺りはいかがですか。
坂口:2015年8月の両国大会の前、6月に行われたトーナメントで優勝し、KO-D無差別の挑戦が決まってから、メンタルがやられましたね。結構プレッシャーが掛かってきて…。
正直、眠れないし飯も喉を通らないという日が続きました。そのプレッシャーと闘っている時「普通の人だと、このプレッシャーに潰されてダメになる」と感じました。そのくらい、追い詰められましたね。
総合の時も減量とか経験し、眠れなくて真っ暗な部屋の中で体育座りしているとか…。(笑)でも、それとは違ったプレッシャーがあるんですよね。
――それは、プロレスは戦うだけではなく、観客を楽しませるという部分も含まれますか?
坂口:「戦う」という部分では、総合もプロレスも同じですが、全く似ても似つかない競技だと思っています。ある意味、対戦相手だけでなくお客さんとも闘っているのが、プロレスなので…。
いろいろなプレッシャーが襲ってきて、普通の人なら絶対に押し潰されてしまうと考えていました。
――そのような中、プロレスラーとして8年の時間が経過しました。振り返っていかがですか。
坂口:そうですね。「まだ8年しかやっていないのか」という気持ちもあるし、「8年もやっているのに何やっているんだ」という思いもあります。さまざまな気持ち混じり合っている8年ですね。だから6年目くらいから数えないようにしました。(笑)
――現在、会社を設立し、働きながらプロレスの試合をし、そしてトレーニングも積んでいるわけですよね。お酒とかは飲まれますか?
坂口:飲みます。飲み過ぎるくらい飲んでいます(笑)。総合時代から変わらないですね。でも、階級があるので暴飲暴食には気を付けていました。もちろん今も気をつけています。
プロレスを始めてからは、トレーニングの仕方が変わりました。細かくいえば、ミットの蹴り方一つから変えました。 プロレスは総合と違って無差別、体格が大きいレスラーと戦います。
総合時代は体重70キロだった自分と、体格的に相手は変わらないわけですよ。それが今度は、自分より50キロ以上重いレスラーと戦うこともあるので、体重も7,8kg増量しました。それ以上増やすと、自分の身体が動かなくなります。
総合時代は70kgの階級だったので、72,3kgくらいで動くのが楽なんですよ。今は、そこから77,8kgの間を行ったり来たりしています。その辺りの体重が、身体を動かす中での限界だと感じています。
レスラーの中には、むりやり身体を大きくする人たちもいますけど、自分の体への負担だったり、リング上でのスピードだったりを考えた時、この体重(72~78kg)がベストだと、プロレス始めて8年間でわかりましたね。
――坂口選手は総合をベースにした蹴りや関節技と、スピード感のある俊敏な動きが特徴的ですよね。プロレスデビュー前から考えていたスタイルですか?
坂口:プロレスをやり始めてから勉強したことが多いですね。今は休止しているユニット「酒呑童子」のKUDOさんや高梨さんと組んでいる時、酒を飲みながら練習の仕方だったり、試合でのスタイルだったり学んだことが多く、それを試合で少しずつ試していくという感じでした。今も、まだ完成形じゃないですし、いろいろと考え試しながらリングに上がっています。
――日々、試行錯誤しているんですね。そう言えば以前、坂口選手を街で見かけたことがあります。年下の先輩レスラーの方と一緒で、その方に対して、気を遣われている印象を受けました。
坂口:自分の中で年齢は、そんなに重要ではありません。自分より先にデビューしていれば先輩じゃないですか。
自分の生き方として、「入社一年目で、自分の方が年上だから偉そうにしている」というのが合わないですし、二十歳の若造にキツく言われても、彼より自分が経験不足であれば、努力して、そいつを抜かせばいい。
本当に年齢は全く気にしないですし、たえず与えられたものに従って、真っ新な気持ちで向き合うのが大切だと思っています。変なプライドを持っている人は大成しないですよ(笑) 。
<インフォメーション>
王者田中将斗選手に、坂口征夫選手が挑むKO-D無差別級選手権。
この試合「DDT UNIVERSE LIVE! MAX BUMP 2020」は、ノーピープルTVマッチとして4月12日、東京・新宿にある「新宿FACE」で行われます。 ご観戦は動画配信サービス「DDT UNIVERSE」で中継致します。
詳しくは、下記のDDT职业摔跤官方网站请看。
URL:https://www.ddtpro.com/ddt