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大谷翔平、佐々木朗希、山本由伸ーロサンゼルス・ドジャースの歴史を振り返る

シカゴ・カブスとロサンゼルス・ドジャースが顔を合わせるメジャーリーグの開幕戦『MLB 東京シリーズ 2025(MLB Tokyo Series presented by Guggenheim)』が今年3月15日(土)~19日(水)にかけて東京ドームで開催される。各チームの日本人選手の活躍も気になるところだが、今回は日本に来日が決まったロサンゼルス・ドジャースのこれまでの歴史や名選手について振り返ってみたい。※トップ画像イラスト/これ松えむ

图标 fopv vbvqbakadu白鸟淳一 | 2025/02/16

ロサンゼルス・ドジャースの歴史

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イラスト/これ松えむ

実はドジャースは元はロサンゼルスの球団ではなく、当初はブルックリンを拠点としたチームだった。1890年にナショナルリーグに加盟し、同年にリーグ優勝を果たすなど興行としての成功を手にする。

しかしその後は苦しい状況が続き、なかなか優勝を手にすることはできない状態が続く。1930年代は野球界変革の時代ともいえ、ナイトゲームやテレビ中継が導入された。このころから徐々にドジャースも勝利を掴めるようになっていく。そして1947年にはナショナルリーグ優勝を果たす。その年のビッグニュースはジャッキー・ロビンソン選手との契約だろう(後述)。


さてドジャースにとって大きな転機となるのが、1950年にウォルター・オマリー氏(元々は球団の弁護士)の球団社長および筆頭株主(オーナー)就任だ。

ワシントン・新球場の建設がうまく進まない状況を見かねたオマリー氏は西海岸エリアへの移籍を決断し、1958年に現在の「ロサンゼルス・ドジャース」が誕生することとなった。1962年には念願の新拠点「ドジャー・スタジアム」に移転し、リーグ優勝は逃したものの、移転後最多の102勝をあげた。実は当初西海岸への移転は不評で、一部のファンの間では「裏切り」と言われるほどだったが、結果的に彼の経営手腕がMLBの発展に寄与しているといえる。


ドジャースと日本との関わりは、1995年に日本の野茂英雄が紆余曲折を経てドジャースに入団(後述)したことから始まるだろう。特徴的なトルネード東方から繰り出される速球とフォークを武器に活躍し、日米で『トルネード旋風』を巻き起こした。その後も多くの日本人選手がプレーすることとなり、日本においては最も認知度の高いMLB球団のひとつだ。

初の黒人メジャーリーガー“ジャッキー・ロビンソン”もプレー

1947年には、20世紀以降の近代MLB初の黒人選手のジャッキー・ロビンソン選手がドジャースに入団。現在はMLB全30球団で永久欠番となっている背番号42をつけてプレーした。

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ジャッキー・ロビンソン選手(イラスト/これ松えむ)

ドジャーズに在籍した日本人選手

日本人メジャーリーガーのパイオニアでもある野茂英雄の入団以降、多くの選手がブルーのユニフォームに袖を通し、現在在籍する3選手を含めると、これまでに計12選手がプレーしている。


野茂英雄投手(1995年–1998年、2002年–2004年)

石井一久投手(2002年 – 2004年)

木田優夫投手(2003年 – 2004年)

中村紀洋選手(2005年)

斎藤隆投手(2006年 – 2008年)

黒田博樹投手(2008年 – 2011年)

前田健太投手(2016年 – 2019年)

ダルビッシュ有投手(2017年)

筒香嘉智選手(2021年)


今回は在籍した日本人選手の中から注目すべき選手にフォーカスする。


野茂英雄投手(1995年–1998年、2002年–2004年)

1990年のドラフト1位で近鉄バファローズに入団した野茂は、初年度からトルネード投法から繰り出される速球とフォークボールを武器に、最多勝、最多奪三振などのタイトルを総なめにし、この年の新人王とMVPも獲得した。1995年には、当時近鉄を率いていた鈴木啓示監督との確執などを理由に、野茂は近鉄を退団。ドジャースとマイナー契約を締結し、海を渡ることとなった。

5月2日にメジャー初登板を果たし、日本人としては村上雅則以来2人目のメジャーリーガーとなった野茂は、その後も持ち前の速球とフォークボールで三振を量産。前半戦を13試合の登板で6勝1敗・防御率1.99で締め括ると、メジャーリーグのオールスター戦にも選ばれ、先発の万度に上がった。最終的には13勝6敗、リーグ2位の防御率2.54、236奪三振の成績を残し、7年ぶりの地区優勝に貢献。新人王のタイトルも獲得し、『トルネード旋風』を巻き起こした。

2年目の1996年も16勝(11敗)を挙げた野茂は、9月17日のコロラド・ロッキーズ戦でノーヒットノーランも達成した。97年も14勝を挙げた野茂だが、右肘の手術やフォームを崩したことによる不振が続いた1998年6月にニューヨーク・メッツへと移籍が決定。

その後3球団を渡り歩いた野茂は、2001年オフにはドジャースへの復帰が決定。2002年、2003年には16勝(6敗)を挙げたが、翌2004年は肩を手術した影響で球威が戻らず、自己ワーストの10連敗を喫することに。2004年限りで野茂は退団し、翌年はタンパベイ・レイズとマイナー契約を結ぶこととなった。


黒田博樹投手(2008年 – 2011年)

2007年オフに3年契約でドジャースに入団した黒田は、初年度の2008年からローテーションを守って9勝(10敗)、防御率3.73の活躍を見せ、地区優勝に貢献した。翌2009年の開幕投手を任された黒田は、この年もシーズンを通して安定した投球を見せてチームの地区優勝に貢献。ディビジョンシリーズを制して迎えたリーグチャンピオンシップでは、3戦に先発するもKOされ、チームもここで敗れることとなった。2010年、2011年も黒田は連続して2桁勝利をマークし、チームを支えたが、2012年にニューヨーク・ヤンキースに移籍することとなった。


斎藤隆投手(2006年 – 2008年)

横浜ベイスターズを退団し、2006年2月にドジャースとマイナー契約を結んだ斎藤は、開幕直後に当時絶対的な守護神だったエリック・ガニエの故障によりメジャー昇格のチャンスを掴むと、その後も安定した投球を披露。2006年にはチーム最多の72試合に登板し防御率2.07、シーズン途中から抑えを任され24Sを挙げる活躍で、ドジャースのリリーフを支えた。ベテランに差し掛かった36歳での初挑戦に不安視する向きもあったものの、アメリカでも進化を続けた斎藤は、2007年に自身の最高球速を6キロ更新する159キロを計測。ドジャーズに在籍した3年間で防御率1.95、245奪三振(52四球)、WHIP0.912、81Sの成績を残し、2009年にボストン・レッドソックス移籍することとなった。


前田健太投手(2016年 – 2019年)

広島カープから2016年にFA移籍した前田健太は、2019年までの3シーズンに渡り先発やリリーフとしてチームを支えた。4月のサンディエゴ・パドレス戦で初登板、初勝利を挙げると、その後も白星を積み重ねて16勝をマークしたが、プレーオフでは力を発揮できず。3試合に先発登板した試合はいずれも短いイニングでマウンドを降りている。2017年にも2年連続2桁勝利の13勝を挙げる活躍を見せたが、チーム事情もあってポストシーズンではリリーフで起用されることに。ディビジョンシリーズ第2戦のダイアモンド・バックス戦では白星を手にする好投を見せると、リーグ優勝決定戦の1戦でも勝利投手に。チームとしては1988年以来29年ぶりとなるワールドシリーズ進出を決めた。なお、ワールドシリーズでも前田は4試合に登板し、そのうち3試合を無失点に抑える好投を見せたが、チームは3勝4敗でヒューストン・アストロズの前に敗れている。

2018年も先発やリリーフとして計39試合に登板した前田は、2年連続のワールドシリーズ進出にも貢献。第2戦に中継ぎとして登板し無失点に抑えたものの、ボストン・レッドソックスの前に1勝4敗で屈し、またしてもワールドチャンピオンの座を逃した。2019年も10勝を挙げる活躍を見せた前田健太は、翌年からミネソタ・ツインズに移籍。現在はデトロイト・タイガースで現役を続けている。


ドジャースに在籍した外国人選手

続けてロサンゼルス・カドジャースの歴史を彩った日本でもお馴染みの外国人選手を紹介する。

 

朴贊浩投手(1994年-2001年)

1994年に大学校を退学して海を渡った朴贊浩(パク・チャンホ)は、1996年に5勝を挙げてブレイクの兆しを見せると、翌年以降は先発ローテーションに定着。1997年に14勝、1998年に15勝を挙げる活躍で、野茂英雄らとともにチームを支えた。2001年まで5年連続2桁勝利を挙げた朴 贊浩は2002年にテキサス・レンジャースへと移籍。キャリア終盤の2011年には日本のオリックス・バファローズに加入したが、7試合に登板し1勝5敗の成績に終わっている(野茂は1998年途中にメッツに移籍)。


マイク・ピアザ(1992年-1998年)

1992年にドジャースから指名を受けたマイク・ピアザは、その年の9月にメジャーデビューを果たすと、1993年はレギュラー捕手として奮闘。149試合に出場し、打率.318、35本塁打、112打点の活躍で新人王を獲得し、この頃から「MLB史上最も攻撃的な捕手」と評されるようになる。

そして1995年には近鉄から野茂英雄が加入。バッテリーを組むようになってからは日本でも多くの人に知られる存在となった。

打率.336・36本塁打・105打点を記録した1996年には、オールスターゲームのMVPを獲得。1997年も打率.362・40本塁打・124打点を記録し、捕手として史上3人目となるシーズン40本塁打を記録した。その後1998年5月14日にフロリダ・マーリンズへと移籍。その1週間後には再びトレードでニューヨーク・メッツに移籍することとなり、野茂英雄と再びバッテリーを組んだ。

 
トレバー・バウアー(2021年-2022年)

先ほど横浜DeNAへの復帰が発表されたバウアーも、初来日する前にはドジャースの一員としてプレーしていた。2020 年にシンシナティ・レッズでサイ・ヤング賞を獲得した2021年にFA権を取得し、熾烈な争奪戦の末にドジャースがバウアーの獲得に成功し、2021年は17試合に登板し、8勝を挙げたが…。私生活でのトラブルにより不起訴となり、出場停止処分を言い渡されることに。その後チームを追われたバウアーは2023年に日本への移籍を決断。メキシコでのプレーを経て、今季は再び横浜のユニフォームに袖を通すこととなった。


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